元祖プラチナ世代のエース 松本翔が明かす、エリートゆえの葛藤とプロになるまでの過程ー後編ー
ピッチで輝かしいプレーを見せるアスリート1人1人に、育成年代の頃の努力や周囲のサポートがあり、引退後の新たなチャレンジがある。izmマガジンではアスリートを中心にスポーツに向き合う人々のストーリーを、良い部分も悪い部分も包み隠さずお届けする。
Vol.6の今回は、ユース出身で横浜F・マリノスへ入団し、その後、様々なチームでプレーし、現在はJFLのMIOびわこ滋賀でプレーをする松本選手をゲストに迎え、ユースで活躍後、プロの世界に入った中での葛藤や結果を残す難しさ、その中での心の変化に迫ります。松本選手が考える厳しい環境で結果を残していくために大切なマインドセットとは。
〈PROFILE)松本翔
横浜F・マリノス、愛媛FC、レノファ山口などで活躍し、現在はJFL・MIOびわこ滋賀に所属するサッカー選手。認定こども園で保育の仕事をしながら、サッカー選手として活動している。ツイッターのフォローワーは2万人を超える。
ついに掴んだプロの世界。自分を責めた1.2年目
【izm】
実際プロになってみてどうでしたか?
【松本】
実際プロになってみると
当たり前ですがロッカールームに佑二さんとか
俊輔さんとか普通にいるので最初は少しふわふわしていたように思います。
【izm】
ちょうどベテランの有名な選手たちが退団された時ですよね。
坂田選手や松田選手、山瀬選手とかですよね。
試合に出るのは最初厳しかったんじゃないでしょうか。
【松本】
夏過ぎのナビスコカップのフロンターレ戦で初ベンチ入りでデビューしました。
そこからはリーグ戦やナビスコ、天皇杯含めて全部ベンチ入りは出来ていたのですが、試合に出たのはわずかでしたね。
でもやれるなという感覚は持っていて、凄くワクワクしてた気がします。
【izm】
2シーズン目はどうでしたか?
【松本】
2シーズン目はキツかったです。
4月4日の試合でバースデーゴール決めてから少しして、全く試合に出れない時期が続きました。
この時期マリノスも勝てていなかったのですが、練習していても自分が成長している実感もなく、周りからも結構厳しく言われていたので、それを全部受け止め覆す実力もなく、全部自分が悪いと思って溜め込んでしまっていました。
【izm】
性格も関係していますよね。
【松本】
そうですね。元々メンタル強くないので、ここから悪循環が始まるんですがミスをしたく無いから、無難なプレーになってしまう。
そうすると、本当にただいるだけの選手になってしまい….
キツいことを言われたくないとも思っていました。
そうなってしまうと、練習に行くのも怖くなり、早く自主練や午後の時間にならないかなと考える様になっていました。完全に自分を見失いました。
【izm】
それは辛かったですね。。
【松本】
当時、中澤さんとか一番最初にクラブハウスに来てたんですよね。
それを見ていて、一年目の俺が遅れてどうするんだと思い、それを見てから誰よりも早くクラブハウスに行くようにして、練習は午前だけでしたが、午後も残ってひたすら自主練やトレーニングルームにいました。
人より時間と回数を重ねて、なんとか追いつこうと思っていたんです。
本当は誰かに相談とかすればよかったと思うのですが、小さい頃からの性格上、なかなか伝えれなくて、そういう風に見られたくないと思ってしまって出来なかったですね・・・
【izm】
その時、小野裕二選手はどうでしたか?
【松本】
小野選手は小さい頃から周りにも自分の意見を言えてました。僕は常に尊敬してました。
俺もそんな風に出来ればと思いつつ、試合に出れてなかったので発言権がないように感じていました。
環境を変えるため、自ら申し入れたレンタル移籍から再び横浜F・マリノスへ
【izm】
その辛い2年目を経て3年目に愛媛に行かれますよね?
【松本】
この環境を変えなけえばという思いが強かったので自分からレンタルを申し入れて愛媛に行きました。
当然、J1から行くので期待されていましたし、自分自身、やってやろうという思いは強かったです。
でも結果10試合くらいしか出場できず・・・ 「ここでも自分の力出せなかったか。」と言うのが正直な感想でした。
【izm】
そのあとマリノスに戻られていますが、心境としてはいかがでしたか?
【松本】
やっぱりもう一度マリノスでチャレンジしたい気持ちが強かったんです。
でも最初からフロントからは「厳しいと思うよ」と言われていました。
なので、これで駄目なら、もうマリノスでの自分は無いという覚悟はできてました。
結果は一度も試合に出れなかったんですが。
だからサポーターの人達とか応援してくれてた人達に対して本当に申し訳ないという気持ちばかりでした。
【izm】
もがいていらっしゃったんですね。
【松本】
いや、この後ももがき続けるんです(笑)
もう戻ることはない、レンタル移籍でレノファ山口へ。そして契約満了
【松本】
マリノスに戻った後レノファ山口へレンタルでいくことになるんですがこの時マリノスでの在籍が5年目で、
ここでチームから移籍するということは、もう戻ることはないなと確信していました。
この時も愛媛同様、マリノスから助っ人という形で行くのでプレッシャーが想像以上にキツかったことを覚えています。
この時のレノファはJFLに昇格した年で、その勢いのままJ3に昇格するんです。
【izm】
当時のメンバーは凄いメンバーでしたよね?
【松本】
そう、今ではJ1、J2で活躍している選手も数多くいて凄く勢いがありました。
その中で僕は一度もスタメンで起用されてないんです・・・
途中出場が13試合くらい。歯痒かったですね・・
自分が出ていないチームが勝ち上がっていくのを複雑な想いで見ていました。
【izm】
その昇格決まった年に契約満了を告げられたんでしょうか?
【松本】
はい、わかってはいました。
それと同時にマリノスからも契約満了を言い渡されました。
でもここでサッカーやめる選択肢はなくて、 このままじゃ終われないと思っていたので、トライアウトに向かいました。
プライドが邪魔して断ったオファー。所属チームがなくなり出会った学生たち
【izm】
トライアウトはどうだったんでしょうか?
【松本】
J3のチームからいくつかオファーを頂いたんですが、サッカーだけで暮らせないという現実を当時はプライドが高くて許せなかったんです・・・
【izm】
なるほど、マリノスの松本翔ですもんね。
【松本】
そして決断できず迷ってるうちに、移籍市場は閉まってしまい新しいシーズンが始まってしまいました。
【izm】
そうだったんですね、所属チームがなくなるのは厳しくなかったですか?
【松本】
まだJリーグでやれるはずなんだよなという思いが心にあって、当時の自分は「マリノスの松本翔」というブランドが無くなる事が怖かったんだと思います。
【izm】
現実が受け入れなかったんですね。
【松本】
そう、まだ自分がどう見られてるか・・とかそんな事ばっか気にしてました。
そんな時恩師の川合学さんと会う機会があって、相談したら「日本工学院で練習してもらっていいよと」言ってもらえて、それでマリノスの提携している専門学校である、日本工学院のサッカー部に練習参加させてもらいました。
専門学生だけど、高校では輝けずに、でも諦めずに皆まだ本気でプロ目指していて、サッカーがとにかく大好きで、みんな一生懸命で、熱いんです。
そんな彼らと毎日一緒に練習しているうちにだんだん気持ちが変わっていったんです。
「あれ、俺いつからサッカーやってて楽しくなくなったんだろう」
とか自分の気持ちに向き合うきっかけをもらいました。
結局一年くらい一緒に練習して、合宿も遠征も、試合も全部帯させてもらったんですが、最後の方は純粋に楽しくなってたなぁ。
工学院での経験はサッカーの原点に戻してくれたというか楽しさを再発見させてくれたと思っています。
初めての地域リーグ。再度Jリーグでプレーしたいと強く思えた
【松本】
工学院を紹介してくれた川合さんの紹介で、地域リーグのサウルコス福井(現:福井ユナイテッドFC)に入団しました。
最初は地域リーグも初だったので戸惑いもありましたが楽しかったです。
また、ここでサッカー以外で人生で初めて働くんです。
もちろんサッカー給がないので当たり前なんですが、介護の仕事をして、13時〜20時30分位まで、それすらも楽しかったです。
【izm】
福井でのサッカーはどうだったの?
【松本】
結局JFLには上がれなかったんですが、地域CLも出場して、その熱い戦いに身を置いてるうちに、
ここからサッカー人生一から這いあがろうと思ったんです。
本当に楽しかった。
そしてその想いから当時の代理人にガイナーレ鳥取の練習参加の話もらってシーズン終わりで行きました。
練習には20人くらいいて、セレクションみたいな感じでした。
地域リーグも経験しているし、失うものもなく、思って思い切りやりました。
当時の監督は森岡隆三さんで、その時内定をもらったんです。
Jリーグに戻って来れた!と、素直に嬉しかったです。
念願のJリーグ復帰。1シーズンで満了、必要とされた場所でプレーを
【izm】
なるほど。
戻ってきたJリーグはどうでしたか?
【松本】
自分のプレースタイルが変わっているのは自覚していました。
色々経験したことで、守備への意識や気を利く気かす、チームの為に動くなどが一つ武器となって、評価もしてもらえたのですが、監督の途中変更などもあり、結果1シーズンで契約満了となりました。
ただプレースタイル含めて、もう少しで何か掴める感覚があったので次はカテゴリー関係なく、自分を必要としてくれる所ならもう一皮剥ける。プレーしたい。という思いが強く、高知ユナイテッドSCが声をかけてくれたときは迷いがありませんでした。
【izm】
これまで聞いてきた印象と違いますね、
何かご自身が確立されてきているというか・・・SNSで発信を始めたのもこの頃からでしょうか?
【松本】
昔からしてはいましたが、より力を入れたのは鳥取くらいからです。
どこ行ってもサポーターの人達が暖かく迎えてくれたのが嬉しく、サッカー以外でも自分の事を知ってもらい、人間性を好きになってもらう事からきっかけを作ろうという想いで始めました。
【izm】
料理についての発信ももう長らくやられていますよね。
凄く見てくれてる人の事を考えて作られてるような印象です。
【松本】
いや、実はそんなに考えてるというよりかは、純粋に自分の好きな料理を「知って〜見てみてー」って日記のような気持ちです。親近感持ってもらえるように、近い距離に感じて欲しいというのは心がけてます。
これでサッカーで活躍できてJに戻って来れたら本当にみんなに喜んでもらえるのではと思っています。
サッカーだけじゃない、サッカーを地域で盛り上げるために自分にできること
【izm】
高知の話を聞かせてください。
【松本】
高知ではサッカーがあまり根付いてなくてJFLでJリーグ参入を目指してるんですが、あまり街も盛り上がっていないんです。
当たり前なんですが、僕のことを誰も知らないですしね。
だから構えることなく、一人の人として見てもらえるので、そこが僕にとっては嬉しく、これだ!と。
きっかけを作るならとにかく人。
すごく良い人ばかりでこれは自分きっかけで街を変えれるとなぜか確信がありました。
【izm】
SNSも盛んになりましたよね。
【松本】
そう、自分にできることはなんでもやろうと思って
外食の時はわざとチームジャージ着て行って、人の目を惹きつけ、話の話題を作る。
少し髪を明るくして、印象を付けて、でも話せば熱く本気度を見せる。小さななことの積み重ねで人と人を繋いで、サッカー選手ではなく、一人の人としての松本翔のファンを作り続けました。
インスタも始めて、高知の食を発信し続けました!
高知での2年は本当に楽しかったです。純粋にサッカーを楽しめたし、チームに貢献している手応えもありましたし、サッカー文化の目が少しずつ出せてきてる実感でした。
去年は仕事で幼稚園の先生をやっていたのですが、その子どもたちが試合観に来てくれたり、最後は1000人以上の人達が試合に来てくれたんです。
契約満了を告げられた時はその場で社長やGMの前で泣いてしまいました。
サッカー的にも人間的にも成長できてた自信もあったし、高知で現役終わらせる気持ちでやっていたので・・・
【izm】
その後MIOびわこ滋賀から声がかかるんですね。
【松本】
そうです。高知と同じカテゴリーでもあるので高知と戦って、勝って、良い意味で後悔させてやる。という気持ちで、なおかつ、自分を成長させてくれたチームに恩返しをという気持ちでした。
今、29歳になって初めて自分を発見できた気がしています。
ー 様々な経験をしてきた松本選手のこれからの活躍を楽しみにしています。
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